台湾中華三昧&ダイビングツアー1998
【 台湾ツアー体験記 】 中正記念堂 国賓大飯店飲茶 台湾、スキューバ・ダイビングとグルメの旅(前編) (1)旅行計画と羽田国際ターミナル 伊藤景子さんはテレサ・テンの大のフアンで、1日前に台北入りし、彼女の墓参りをしている。松橋氏も彼女に同行し、同じく1日前に台北入りしている。3日は、残りの3人が羽田の中華航空カウンター前に朝7時に集合ということになっていた。中華民国と日本は現在国交がないため、中華航空は、国際線だが、成田ではなく羽田空港で発着している。利用する側からは便利である。特に大船からは江の電が運行する直通のリムジンバスがあり、便利である。私は大船発5:25発のバスに乗り、羽田には6:10に到着した。ところが、江の電のバスは国際線ターミナルの前は素通りし、国内線ターミナルの方へ到着する。国内線ターミナルと国際線ターミナルを結ぶ循環バスは本数が少なく、有料(\210)である。第1及び第2駐車場の間の道を徒歩でまっすぐ下れば800メートルであり、約12分程度で到着する。大部分の人は荷物もあることなのでタクシーを使うことになる。私はもちろん歩いた。高橋和枝さんとは中華航空カウンター前で初めて会った。笑うと八重歯のチャーミングな若い独身女性だ。アシスタントの細川舞さんは、名前の通り細身で、73年生まれの美女。私の次男:亮は72年生まれだから亮より1年若い。彼女は5分ほど遅れて到着。驚いたことに、自分はツアーに参加しないのに、われわれを見送りに来た殊勝なフォルモサ・フアンがいた。年末年始の沖縄ツワーで同行したインストラクターの免許を持つ秋冨氏だ。彼は当初、参加する予定であったが、連休中にコンピュータのメンテナンスの仕事が入ったため同行をあきらめたという。舞ちゃんにお菓子の差し入れをして、われわれを見送ってくれた。秋冨さん、ごくろうさまでした。 (2)台北空港と大飯店 店」)だ。ちなみに、「中山」とは、中華民国の建国の祖、孫文の号である。第二次世界大戦後、共産党との権力争いに敗れて台湾に渡ってきた蒋介石の号は「中正」といい、この「中山」と「中正」を被せた地名が非常に多い。また、台湾ではホテルのことを「大飯店」と言うそうだ。さて、山水閣大飯店は、道路に面した小さなビジネスホテルといった風情だが、フロントのおばさんは日本語が上手だ。ここでチェックイン後、先行の松橋・伊藤組と合流、呂理朗さんの運転で市内観光に出かけた。 (3)飲茶(イム・チャ)コースと忠烈祠(ツオン・リエ・スー) 昼食が終わると、呂氏はまず忠烈祠(ツオンリエスー)へ案内してくれた。ここは国民党のために戦死した約33万人の将兵の霊を祭った廟であり、毎日1時間ごとに衛兵の交代式がある。われわれはちょうど2時に到着した。台湾は徴兵制が敷かれており、男子は20歳から2年間、軍役に着く義務がある。松橋氏によると、衛兵は20歳の兵士のうち、容姿端麗で身長の揃った者に限られるとのこと。隊長を先頭に約10名の兵士が2列に並び、一糸乱れずに行進し、神殿の前で銃剣を使ってパフォーマンスをする.特に神殿の左右に立ち尽くすガードは、見事な銃剣さばきを見せてくれる。その側には私服を着た先輩が1人ずつ付き、観光客が邪魔をするのを防いだり、服装の乱れを直してあげたりしている。そのしぐさがあまりにかいがいしいので伊藤嬢は「あいつらは、ホモとちゃうんか?」とぶしつけな感想を述べていた。 (4)故宮博物館 (5)龍山寺と台湾式おみくじ (6) 華西街観光夜市と台南担仔麺(タイナンタンツーミェン) (7)基隆嶼(ジー・ロン・ユィ)付近にてダイビング 5時半に起床、6時にダイビングへ出発というハードスケジュール。昨日、呂さんが運転したバンと同じ車が6時に旅館の前に迎えに来てくれた。運転手は、鄭鐘興さんという漁船の共同オーナー兼潜水のガイドだ。鄭さんは日本語がまったくダメなので松橋氏が唯一の便りだ。しかし伊藤さんもけっこう北京語を話す。簡単な日常会話はできるようだ。高速道路を一路北の端へ向かった。とある中学校の前で朝食を摂った。7時前というのにこの軽食屋は学生でごったがえしていた。台湾の中学校は朝7時から始まるという。ずいぶんと待たされてトーストに卵焼きを挟んだサンドイッチの朝食を摂った。そしていよいよ港に着いた。15人から20人位乗れそうな釣り船と船長が待っていた。港の隣には大きな煙突が3本ある火力発電所のような設備がある。松橋氏によると原子力発電所であるといる。その原子力発電所の前には中規模の鉄の船が真っ二つに割れて放置されていた。どうも座礁したものらしい。われわれはバンからスキューバ・ダイビングの用具を降ろし、また別に用意してあった空気ボンベとともに船に積んだ。 いよいよ出港。久しぶりにウェットスーツを着ける。30分ほどで正三角形をした島の付近に着いた。6Kgのウエイト装着して後ろ向きになって海水に入る。鄭さんの先導で約30メートル潜水した。切り立ったがけのような斜面を岩に捕まりながら下へ下へと降りる。しかし海流が速い。掴んだ岩がはがれるほど強い。このように強い海流の海に入るのは初めてだ。海底での視界はあまり良くない。ほぼ5メートルからせいぜい10メートルだ。伊豆の海のようなソフトコーラルが多くきれいだ。途中で松橋氏がちょうど手のひらにのる白くてまんまるにふくらんだ「針千本」というフグをくれた。このフグは、普段はスマートな流線形だが、危険を感じたり怒るとコロコロに膨らみ、自分では身動きがとれなくなるらしい。手のひらにのせてもほとんど動かない。そのうちに体を前後にゆすりながらもぞもぞと泳いで行った。 船にあがってから、高橋さんは気分が悪くなり、横になった。私も頭痛と吐き気を催したが、どうも船酔いのようだ。これも初体験。客のなかでは伊藤さんが唯一人元気よかった。鄭さんはあらかじめアイスボックスに用意してあったおおきな石鯛をさばいて刺し身をつくってくれたが、高橋さんと私は食欲がない。およそ1時間ほど休憩した後、2本目のダイビングの時間になったが、高橋さんはついに回復せず。私も頭痛と吐き気がおさまらなかったが、ここで止めてはもったいない。2本目は鄭さんを入れて5人でダイブした。 今回は潮流はなく、静かな海底であった。今回のポイントは沈船見物だ。かなり大きな船が沈んでいた。船は原形をほとんど止めないほどであったが、比較的新しいものだという。ある部分は船倉で区切りがあり、さながら魚のアパートのようだ。今回は浮上するとすぐに船が来てくれた。ダイビング中は気にならないが、船に上がると気分が悪い。私も船倉に入って港に着くまで寝入ってしまった。 (8) 汽車と火車と機車:漢字文化 (9)屋台市場で朝食 (10)中正記念堂 中正とは、蒋介石(ジャンカイスー)のこと。記念堂は、ワシントンDCのリンカーン廟を彷彿とさせる。だが、建物がとてつもなく大きい。松橋氏の話しによると、11階建てのビルと同じ大きさだという。蒋介石の像がある廟へ行くには長い階段を登らなければならない。この点もリンカーン廟によく似ている。蒋介石は3民主義というものを提唱した。これは「民族、民権、民生」という3つの「民」を重視するというスローガンであって、リンカーンの「人民の人民による人民のための政治」を思い起こさせる。 リンカーン廟と違うのは、建物の外観が、純中国風であること、および蒋介石廟も、忠烈祠(ツオン・リエ・スー)と同様、国軍の兵士に守られているという点だ。蒋介石の銅像の左右には常に衛兵が直立し、ここでも正時には衛兵の交代式がある。台北は亜熱帯に属し、5月初旬でも昼間は20度を下らない。正装の衛兵はさぞかし暑くて大変だろうと思ったら、特殊な装置が衛兵の立つポイントへ涼しい風を送り込んでいるようで、納得した。 蒋介石廟の下には、広大な博物館のような文物陳列室があり、蒋介石の一生(1887-1975)を写真や年表、ゆかりの文物などでたどることができる。蒋介石の一生は実に劇的である。日本に学んだ後(振武学校:留学生のための陸軍仕官予備学校)、孫文の辛亥革命(1911.10)に身を投じ、軍官学校を創設、国民革命軍を育成し国共合作による北伐に成功後は、英米の援助のもとに抗日戦争を遂行した。しかし、対日戦に勝利した後も休む間もなく、今度は共産党との内戦を戦い、そして1948年には結局、毛沢東の率いる中国共産党との戦いに敗れ、彼の率いる国民党とその軍隊は、共産党の支配を嫌う人々とともに台湾へ渡った。彼の一生は戦いの連続で、その主要な敵は、初期は軍閥、中期では日本軍、そして最後には中国共産党であった。 われわれ日本人として忘れてはならないのは、実に多くの日本軍が、長年にわたって実に多くの中国人を殺害し、物質を略奪し、実に多大な苦しみを与えたにもかかわらず、1945年8月15日に日本がポツダム宣言を受け、連合軍に無条件降伏した時に、中国大陸に残っていた多くの軍人や民間人に対し、蒋介石は国家的に復讐することをせず、かえってこれを赦し、このためたくさんの人々が無事、日本へ帰国することができたという事実である。対日賠償権の放棄とともに多いに感謝しなければならないと思う。 中正記念館の見学を終えて、売店で買い物をした時に、売店の入り口で面白いものに気がついた。そこには「創意写真貼紙」とあり、「歓楽的時光」、「美好的回憶」とキャッチフレーズがあり、「喜楽君」とあった。この「喜楽君」は、日本で言う「プリクラ」であった。狭い空間に、高橋さん、伊藤さん、舞ちゃん、松橋氏、私の5人がひしめいて台湾のプリクラで記念写真を撮った。出来栄えは、一番奥に遠慮した松橋氏がゴーストのようになったのが気の毒だ。 |