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    台湾中華三昧&ダイビングツアー1998

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    【 台湾ツアー体験記 】

    中正記念堂
    台湾ツアー中正記念堂の写真です。


    国賓大飯店飲茶
    台湾ツアー食事風景です。


    台湾、スキューバ・ダイビングとグルメの旅(前編)

    (1)旅行計画と羽田国際ターミナル

    私の勤務する情総研の近所(青山一丁目)にあるダイビング・ショップ「フォルモサ」のゴールデン・ウィーク恒例ツアー「台湾、スクーバとグルメの旅」に参加した。期間は5月3日~6日の3泊4日。参加者は、主催者側が、ショップのオーナーで、台湾で5年間生活した経験を持つ松橋正一氏とその若きアシスタント、細川舞ちゃんの2人。顧客側は、朝日新聞に勤務する伊藤景子さん、商社に勤務する高橋和枝さん、それに私の3人。

    伊藤景子さんはテレサ・テンの大のフアンで、1日前に台北入りし、彼女の墓参りをしている。松橋氏も彼女に同行し、同じく1日前に台北入りしている。3日は、残りの3人が羽田の中華航空カウンター前に朝7時に集合ということになっていた。中華民国と日本は現在国交がないため、中華航空は、国際線だが、成田ではなく羽田空港で発着している。利用する側からは便利である。特に大船からは江の電が運行する直通のリムジンバスがあり、便利である。私は大船発5:25発のバスに乗り、羽田には6:10に到着した。ところが、江の電のバスは国際線ターミナルの前は素通りし、国内線ターミナルの方へ到着する。国内線ターミナルと国際線ターミナルを結ぶ循環バスは本数が少なく、有料(\210)である。第1及び第2駐車場の間の道を徒歩でまっすぐ下れば800メートルであり、約12分程度で到着する。大部分の人は荷物もあることなのでタクシーを使うことになる。私はもちろん歩いた。高橋和枝さんとは中華航空カウンター前で初めて会った。笑うと八重歯のチャーミングな若い独身女性だ。アシスタントの細川舞さんは、名前の通り細身で、73年生まれの美女。私の次男:亮は72年生まれだから亮より1年若い。彼女は5分ほど遅れて到着。驚いたことに、自分はツアーに参加しないのに、われわれを見送りに来た殊勝なフォルモサ・フアンがいた。年末年始の沖縄ツワーで同行したインストラクターの免許を持つ秋冨氏だ。彼は当初、参加する予定であったが、連休中にコンピュータのメンテナンスの仕事が入ったため同行をあきらめたという。舞ちゃんにお菓子の差し入れをして、われわれを見送ってくれた。秋冨さん、ごくろうさまでした。

    (2)台北空港と大飯店

    羽田、台北間は飛行機でわずか3時間程度。時差が1時間あるので、8時50分の出発で到着は11時10分だ。空港には、松橋氏の友人、呂理朗(リ・リ・ラン)氏の細君、陳恵玲(チン・フォエ・リン)さんとかれらの一人娘、呂依宣(リ・イシュエン:愛称トットちゃん)が待っていた。トットちゃんは小学校6年生でミニスカートのかわいい子だ。台湾は一足先に梅雨。曇空の下を30分ほど走ると市内へ入った。ホテルは中山北路に面した山水閣大飯店(ホテルは「大飯
    店」)だ。ちなみに、「中山」とは、中華民国の建国の祖、孫文の号である。第二次世界大戦後、共産党との権力争いに敗れて台湾に渡ってきた蒋介石の号は「中正」といい、この「中山」と「中正」を被せた地名が非常に多い。また、台湾ではホテルのことを「大飯店」と言うそうだ。さて、山水閣大飯店は、道路に面した小さなビジネスホテルといった風情だが、フロントのおばさんは日本語が上手だ。ここでチェックイン後、先行の松橋・伊藤組と合流、呂理朗さんの運転で市内観光に出かけた。

    (3)飲茶(イム・チャ)コースと忠烈祠(ツオン・リエ・スー)

    先ず軽く昼食にしようということで、国賓大飯店(Hotel Ambassador)と言う一流ホテルのレストランへ入り「飲茶」コースを頼んだ。これはカートでたくさんの蒸篭に入った蒸し餃子やシュウマイやちまきのようなものを自分が食べたいものを取って食べるスタイルなので、食べ物の名前を知らなくても注文できる合理的なスタイルだ。どれも実においしい。お茶はウーロン茶とプア茶と呼ばれるお茶の2種類。プア茶の方が香りが強く、人気があり、みな貧乏茶を下さいと言いつつたくさん飲んだ。

    昼食が終わると、呂氏はまず忠烈祠(ツオンリエスー)へ案内してくれた。ここは国民党のために戦死した約33万人の将兵の霊を祭った廟であり、毎日1時間ごとに衛兵の交代式がある。われわれはちょうど2時に到着した。台湾は徴兵制が敷かれており、男子は20歳から2年間、軍役に着く義務がある。松橋氏によると、衛兵は20歳の兵士のうち、容姿端麗で身長の揃った者に限られるとのこと。隊長を先頭に約10名の兵士が2列に並び、一糸乱れずに行進し、神殿の前で銃剣を使ってパフォーマンスをする.特に神殿の左右に立ち尽くすガードは、見事な銃剣さばきを見せてくれる。その側には私服を着た先輩が1人ずつ付き、観光客が邪魔をするのを防いだり、服装の乱れを直してあげたりしている。そのしぐさがあまりにかいがいしいので伊藤嬢は「あいつらは、ホモとちゃうんか?」とぶしつけな感想を述べていた。

    (4)故宮博物館

    次に向かったのは、今回の旅行の1つのハイライト、故宮博物館だ(入館料大人80元、撮影禁止)。ここは世界四大博物館の1つで、中国歴代皇帝が収蔵したコレクションをもとに約62万点もの収蔵品があるという。常設展示が6000点で他は3ヶ月ごとに入れ替え、すべてを見るには計算上では8年かかるという膨大なものだ。われわれは1Fの博物館の概要を説明したコーナーと、青銅器の一部、それに常設のコレクションのハイライトがある3Fの一部を見ることにした。およそ2時間ほどを費やしただけだが、それでもそのすばらしさを垣間見ることはできた。印象深かった展示品は白と緑の天然翡翠を使って作った白菜とそれにとりついているバッタの彫り物、それに高さわずか5センチメートルたらずのツゲの木に彫られた羅漢像で、これは膝の上に小犬がじゃれ、自分は上半身裸で孫の手のようなもので背中を掻いている。それに同じく青い葉っぱの上に小さな虫が止まっている彫り物。ここはまたぜひ何回も来てみたくなる所だ。

    (5)龍山寺と台湾式おみくじ

    故宮に到着する寸前、大粒の雨が降り出した。故宮見学後も雨は降り止まなかったが、次の観光先である龍山寺(ロンシャンスー)へ向かった。龍山寺へ着いた時は夕方の5時頃で、呂一家とはここで別れた。雨がすごい勢いで降っていたが、寺はたくさんの参拝人で賑わっていた。寺に到着すると、松橋氏がまずおみくじのひきたかを教えてくれた。まず入り口の台の上に備えてあるあけびの実を半分に割ったようなペアの木片を1セット取り、これを空中に放る。二つとも裏返しになったり、二つとも表だったらやり直し。3回続けて表と裏が出たら、傍らにある大きな筒に入った長さ1メートル程の棒のくじを引く。棒の先には番号が書いてあり、今度は門を入って左手奥にある引き出しがたくさんあるコーナーへ行く。引き出しには番号がふってあり、自分がひいたくじの番号の引き出しを開け、一番上においてある紙をとる。紙には運勢が印刷してあるという算段だ。ここで伊藤嬢は引き出しを思い切り勢い良くあけたものだから引き出しをそっくり出して、中身を外にひっくりかえしてしまった。松橋氏は「アホな奴がドジしとるなー」といった顔で見ていたが、われわれは大急ぎで下に落ちた紙を拾って引き出しに入れ直した。くじの結果は、高橋嬢が大吉、伊藤嬢は上上、舞ちゃんは上平、そして松橋氏は無印であった。(私は引かなかった。)卦の内容を見ると大吉と上上はほぼ似たもので、仕事運が良かったり病気が快癒したりとあった。無印の内容は最悪で、病気は祈祷要、仕事は金を失うといったようなものであった。当然のことながら、松橋氏は、「僕はくじなぞ信じないから」と言いつつ、悔しそう。伊藤嬢には、「引き出しを落としたから、運も皆落ちたな」と憎まれ口を利く。くじを引いた後は、お堂の近くも見物した。お堂の中では女性ばかり20人ほどが歌を唄うように節をつけてお経を読んでいた、参拝の人々も漢字ばかりで書かれたお経を取り出し、いっしょに節をつけるようにして声を合わせていた。

    (6) 華西街観光夜市と台南担仔麺(タイナンタンツーミェン)

    龍山寺を見学したのちは、なにやら怪しい雰囲気のマーケット、華西街観光夜市へ出かけた。通りの両側には生きたヘビやらホルマリン漬けの毒蛇などが売っている。撮影禁止のサインが下がっているのに気が付かず、思わずフラッシュをたいて映してしまって注意された。特にギョッとしたのは1.5メートルもあるようなヘビの頭を固定して首の下から下の皮をむいていることだ。これは気味が悪い。通りをゆっくりと見学した後、台南担仔麺(タイナンタンツーミェン)という場違いなレストランへ案内された。ここは、松橋氏が台湾に駐在中に取引上知り合ったという友人、郭耿星(Kuo Geng Xing:クオ・グアン・シン)さんがわれわれを接待してくれるという不思議な場面。郭さんは日本のオリンパスの台湾総代理店「元佑実業有限公司(Yuan Yu Industry Co., LTD)」の副会長、リッチである。松橋氏を接待しても何の利益も無いと思われるが、これは松橋氏の人徳なのだろう。テーブルはスペイン製、料理を盛り付ける皿や取り皿はイギリスのWedge Wood、グラスはドイツ製、銀食器がフランス製という具合だ。最初に出てきたのは、竹の子の刺し身、次は伊勢海老、次ははまぐり、海老の春巻き、次は卵の殻のなかにキャビアが見える料理で中身は茶碗蒸しのようであわびの切り身が入っていた。次はカニの子のクリームキャベツ、そしてメインは郭氏と松橋氏が店頭の水槽から選んだハタの中華風から揚げで私は頭部をいただいた。もうこの当たりで満腹状態となり、ハタは一部残したほどだが、また続きがありわんこそばのような担仔麺(タンツーミェン)とへちまの煮物、最後にパイナップルとすいかのデザートがでた。皆満腹となって郭氏にお礼を述べ、山水閣大飯店へ戻った。

    (7)基隆嶼(ジー・ロン・ユィ)付近にてダイビング

    5時半に起床、6時にダイビングへ出発というハードスケジュール。昨日、呂さんが運転したバンと同じ車が6時に旅館の前に迎えに来てくれた。運転手は、鄭鐘興さんという漁船の共同オーナー兼潜水のガイドだ。鄭さんは日本語がまったくダメなので松橋氏が唯一の便りだ。しかし伊藤さんもけっこう北京語を話す。簡単な日常会話はできるようだ。高速道路を一路北の端へ向かった。とある中学校の前で朝食を摂った。7時前というのにこの軽食屋は学生でごったがえしていた。台湾の中学校は朝7時から始まるという。ずいぶんと待たされてトーストに卵焼きを挟んだサンドイッチの朝食を摂った。そしていよいよ港に着いた。15人から20人位乗れそうな釣り船と船長が待っていた。港の隣には大きな煙突が3本ある火力発電所のような設備がある。松橋氏によると原子力発電所であるといる。その原子力発電所の前には中規模の鉄の船が真っ二つに割れて放置されていた。どうも座礁したものらしい。われわれはバンからスキューバ・ダイビングの用具を降ろし、また別に用意してあった空気ボンベとともに船に積んだ。

    いよいよ出港。久しぶりにウェットスーツを着ける。30分ほどで正三角形をした島の付近に着いた。6Kgのウエイト装着して後ろ向きになって海水に入る。鄭さんの先導で約30メートル潜水した。切り立ったがけのような斜面を岩に捕まりながら下へ下へと降りる。しかし海流が速い。掴んだ岩がはがれるほど強い。このように強い海流の海に入るのは初めてだ。海底での視界はあまり良くない。ほぼ5メートルからせいぜい10メートルだ。伊豆の海のようなソフトコーラルが多くきれいだ。途中で松橋氏がちょうど手のひらにのる白くてまんまるにふくらんだ「針千本」というフグをくれた。このフグは、普段はスマートな流線形だが、危険を感じたり怒るとコロコロに膨らみ、自分では身動きがとれなくなるらしい。手のひらにのせてもほとんど動かない。そのうちに体を前後にゆすりながらもぞもぞと泳いで行った。

    およそ30分ほどたって浮上したが、われわれの船が見えない。海流が速いためだいぶ遠くへ流されたらしい。ジャケットに装着してある汽笛のような音が出る笛を鳴らしたり、鄭氏が用意したフロート(風船のようなもの)を膨らましたりしたが、結局、船がわれわれを発見し、近づいて来るまで5分以上かかったようだ。

    船にあがってから、高橋さんは気分が悪くなり、横になった。私も頭痛と吐き気を催したが、どうも船酔いのようだ。これも初体験。客のなかでは伊藤さんが唯一人元気よかった。鄭さんはあらかじめアイスボックスに用意してあったおおきな石鯛をさばいて刺し身をつくってくれたが、高橋さんと私は食欲がない。およそ1時間ほど休憩した後、2本目のダイビングの時間になったが、高橋さんはついに回復せず。私も頭痛と吐き気がおさまらなかったが、ここで止めてはもったいない。2本目は鄭さんを入れて5人でダイブした。

    今回は潮流はなく、静かな海底であった。今回のポイントは沈船見物だ。かなり大きな船が沈んでいた。船は原形をほとんど止めないほどであったが、比較的新しいものだという。ある部分は船倉で区切りがあり、さながら魚のアパートのようだ。今回は浮上するとすぐに船が来てくれた。ダイビング中は気にならないが、船に上がると気分が悪い。私も船倉に入って港に着くまで寝入ってしまった。

    (8) 汽車と火車と機車:漢字文化

    船が港に着き、陸へ上がると、気分は治った。台湾の北端に近い基隆の町から一路台北へ向かう。基隆の町ではヘルメットをつけずにオートバイに3人乗り、または4人乗りしている人々を見かけたが、台北に近くなるとみなヘルメットを付けている。最近、違反者には罰金が科せられるようになったという。町の中は見事に漢字一色。面白かったのは、「上」と「下」を重ねて1つの字にしたものと、拉致の「拉」の字、それにローマ字でOKと続いている看板だ。「上下拉致OK」って何だろうと思ったら、上下を合せた字は「カ」の音を表し、拉致の「拉」はもちろん「ラ」、すなわち「カラOK」、そう「カラオケ」のことだ。また「労力士」は「ローレックス」、「肯徳基」は「ケンタッキー」。もっとも面白いと思ったのは、車だ。道路に面した家の駐車場には「汽車出入口」と書いてある。「汽車」とは日本語の「自動車」のことだ。それではTrainは何と言うのかと松橋氏に尋ねると、「火車」と言う。家計のことではない。昔、石炭を燃して走ったからだろう。また、町中には「機車」の字もよく見掛ける。「機車」とはオートバイのことだと言う。振り返って考えてみれば、「Automobile」を「自動車」と訳した人は偉いと思った。また、石炭を燃やして走るTrainが「火車」で、ガソリンで走るCarが「汽車」、Motor-cycleが「機車」と言うのもなんとなく納得が行く気がする。そんな話しをしているうちに山水閣大飯店へ着いた。

    (9)屋台市場で朝食

    7時半にホテルを出て近所の屋台街で朝食。伊藤さんと私は最初の屋台でお粥の食事。おかずを、トーフ、大根の煮物、シラス、卵焼きと4種類とって180元(約720円)。うまかったが、少し高かったのではという気分。次は松橋氏と舞ちゃんが大腸麺線と書いてある食べ物を注文した。これは密度の高いそばのようなもので、30元だった。ここの営業時間は、「営業時間早上6(黒占)至下午4(黒占)」とあった。豆乳は12元。冷えていてくさみがなくうまい。自分でカップを取り出し、タンクの口から注ぐセルフサービス方式だと10元。これは合理的。「煎餃」とあるのは焼餃子のことで1個5元。「少龍肉」は小さい肉マンで、5個35元。どれもみなうまい。1時間ほど市場を見学しながらあれこれ買い食いし、ホテルに戻り、再度、観光へ出発した。

    (10)中正記念堂

    3日目の最初の目的地は中正記念堂。タクシーに分乗して出かけた。ソウルと違って途中で他人が乗ってくるということはないようだ。あいにく正面の大中至正門は、改修工事中であった。横の門から入ると、左右に大きな建物があり、向かって右側が国家音楽庁、左側が国家戯劇院とのことだ。また、記念堂の前は広々とした広場。高橋さん、舞ちゃん、伊藤さんがおどけたポーズをとる。国家戯劇院のまえでは女子高校生の一群が、リーダーの指揮の下、ブラスバンドの練習をしていた。広場の下は、広大な地下駐車場ということだ。

    中正とは、蒋介石(ジャンカイスー)のこと。記念堂は、ワシントンDCのリンカーン廟を彷彿とさせる。だが、建物がとてつもなく大きい。松橋氏の話しによると、11階建てのビルと同じ大きさだという。蒋介石の像がある廟へ行くには長い階段を登らなければならない。この点もリンカーン廟によく似ている。蒋介石は3民主義というものを提唱した。これは「民族、民権、民生」という3つの「民」を重視するというスローガンであって、リンカーンの「人民の人民による人民のための政治」を思い起こさせる。

    リンカーン廟と違うのは、建物の外観が、純中国風であること、および蒋介石廟も、忠烈祠(ツオン・リエ・スー)と同様、国軍の兵士に守られているという点だ。蒋介石の銅像の左右には常に衛兵が直立し、ここでも正時には衛兵の交代式がある。台北は亜熱帯に属し、5月初旬でも昼間は20度を下らない。正装の衛兵はさぞかし暑くて大変だろうと思ったら、特殊な装置が衛兵の立つポイントへ涼しい風を送り込んでいるようで、納得した。

    蒋介石廟の下には、広大な博物館のような文物陳列室があり、蒋介石の一生(1887-1975)を写真や年表、ゆかりの文物などでたどることができる。蒋介石の一生は実に劇的である。日本に学んだ後(振武学校:留学生のための陸軍仕官予備学校)、孫文の辛亥革命(1911.10)に身を投じ、軍官学校を創設、国民革命軍を育成し国共合作による北伐に成功後は、英米の援助のもとに抗日戦争を遂行した。しかし、対日戦に勝利した後も休む間もなく、今度は共産党との内戦を戦い、そして1948年には結局、毛沢東の率いる中国共産党との戦いに敗れ、彼の率いる国民党とその軍隊は、共産党の支配を嫌う人々とともに台湾へ渡った。彼の一生は戦いの連続で、その主要な敵は、初期は軍閥、中期では日本軍、そして最後には中国共産党であった。

    われわれ日本人として忘れてはならないのは、実に多くの日本軍が、長年にわたって実に多くの中国人を殺害し、物質を略奪し、実に多大な苦しみを与えたにもかかわらず、1945年8月15日に日本がポツダム宣言を受け、連合軍に無条件降伏した時に、中国大陸に残っていた多くの軍人や民間人に対し、蒋介石は国家的に復讐することをせず、かえってこれを赦し、このためたくさんの人々が無事、日本へ帰国することができたという事実である。対日賠償権の放棄とともに多いに感謝しなければならないと思う。

    中正記念館の見学を終えて、売店で買い物をした時に、売店の入り口で面白いものに気がついた。そこには「創意写真貼紙」とあり、「歓楽的時光」、「美好的回憶」とキャッチフレーズがあり、「喜楽君」とあった。この「喜楽君」は、日本で言う「プリクラ」であった。狭い空間に、高橋さん、伊藤さん、舞ちゃん、松橋氏、私の5人がひしめいて台湾のプリクラで記念写真を撮った。出来栄えは、一番奥に遠慮した松橋氏がゴーストのようになったのが気の毒だ。